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ミライデザインラボ

室長ブログ

安心安全な水域で泳ぐこと。違う水域へ飛び出すこと。

自分が普段住む水域って決まっていて,そこから上の層に行くにも,下の層に行くにも,意識して行動や考え方を変えていかなくてはいけないのです。

だから普通は,自分が安定して泳いでいられる水域からは出ることがなく,その水域の中でがんばったり,サボったりしながら,安全安心な範囲のトラブルとか僥倖とかそいういうのを感じているわけです。

要するに,今泳いでいる水域は安全で安心なのです。
その範囲で泳いでいるうちは,ある程度行動結果が予想でき,ある程度許容できる。

その中でなら,自分よりもっとすごいひとや憧れのひとを目の当たりにしても,「あのひとは自分とは違う。天才なのだ!」と,目標にして努力するなんてメンドクサイことしなくて済みますし,努力した結果やっぱりチカラが及ばなくて「自分はなんて無能なのだ」と自分にガッカリしなくて済みます。

だから,その水域を飛び出して次のステップに進もうと思うなら,意識をして,強く意識をして,自分はこの安心安全な水域から飛び出して,予想外の困難や荒れ狂う大波を覚悟して,それでも突き進んでいく強い気持ちが必要なのです。

高いレベルに足を踏み入れれば,そこに住む人たちにも出会えます。今までの水域にいたひとたちとは,一線を画する人たちばかり。ひとは同じ水域のひとにしか馴染めません。

だから似たようなひとが集まります。
そして,そういうひとたちに囲まれ続ければ,自分も染まります。最初はたいへんなことばかりだけれど,いつかそれが普通になります。

その苦労や困難を乗り越えられるかどうか。
訓練や練習。自力で学び,習得する。そういう努力が続けられるか。

上の水域に住んでいるひとから見たら大したことがないことでも,これまで挑戦してこなかったひとにしてみたらそれは常に大事です。

なんかめんどくさい話のようで,
実はそんな難しい話をしてるわけじゃないんですよ。

たとえば,梅干しが嫌いで,長い間梅干しを食べてこなかったひとにとって,梅干しってもう食べたらどんなことになるのか予想がつかない「安心安全な範囲」外のものです。

でも食べられるひと,日常的に食べているひとにとっては大したことじゃない。

前者が,これを食べられるようになるには,日常的に「意識することなく」食べるようになるためには,最初は強い意識をもって梅干しを口に運ばなくてはいけないでしょうし,咀嚼する作業とて,困難な道のりに感じるかもしれません。

けれど,これを繰り返し,やがて日常化してしまったら,そのときはじめて新しい水域を泳いでいることに気が付くわけです。

でも普通は,そういう努力は長続きしなくて,安心安全な水域へすぐに戻ってきてしまうのです。

戻ってきたら,また元の日常です。
梅干しを食べない日常。食べられない毎日。それでもよければ安心な水域を泳ぎ続ければいいのです。

でももしも自分をもう一段高い水域へ向上させたいと願うなら,本気でステップアップを願うなら,その壁を超えて上を目指そうと思ったなら,行動するほかないでしょう。

安心安全な水域から強い意志をもって飛び出して,別の水域を目指すのです。それが日常になるまで。当たり前に「安心安全な水域」となるまで,そこで泳ぎ続けるのです。

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