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ミライデザインラボ

室長ブログ

自由を手放してはいけない。

ずいぶんと前に高校生ぐらいの子どもたちに読んで欲しいと思って書いたものです。自由の意味を忘れたオトナたちにももしかしたら伝えるべきことを含んでいるかもしれないと思いました。

仕事がツマらないと思うオトナのみなさんへ。

僕たちはみんな生まれながらにして自由

僕たちはみんな生まれたときから自由です。
もちろん最初は誰かに依存して生きているので,自由ではあっても能力が不足していてその自由を存分には感じられないのだけれど,それでもやっぱり自由であることに代わりはないのだと僕は思っています。

みなさんはこの自由ということを普段どれぐらい意識しているでしょうか。

自由というのは,掛け値なしの自由,一切の制限もなく,いつ何をどうしたっていい,という意味です。

好きなことをする自由。
嫌なことをしない自由。

どんな考えをもったっていいし,どんなことを感じたっていい。どんなことを好きだと思っても良いし,どんなことを嫌いだと思っても構わない。

僕らは本当に自由なんだ。

みんなは自分は自由なんだって思うことはありますか。

そんなこと言ったって,学校には行かなくちゃいけないんじゃないの?友だちはたくさん作った方がいいんでしょ?宿題だってしなくちゃいけないし,ご飯のときはお行儀良くしないと叱られるんだから,ちゃんと座って静かにご飯を食べないといけないってことでしょ。

そんな疑問を感じるかもしれないね。

でも,どの疑問も「そんなことはない。」が僕のこたえだ。

学校には行った方がいいかもしれないし,友だちも多い方が楽しいかもしれないけれど,そうでなくてはならないなんてことはない。
ご飯をお行儀良く食べるというのは,君たちに食べられてしまう「ご飯」たちに対する敬意,尊敬の気持ちだと思うからテレビを見ながら食べたり,ご飯で遊んでしまったりするのは食べ物たちに失礼だと思うけれど,そのうえでお行儀良くするかどうかは,みんなが決められることだ。

学校には行かなくちゃならないなんてことはないし,友だちがひとりもいなくたって誰にも文句は言われない。宿題だってやらずに学校へ行くことはできるし,行儀良くしなくて叱られるかもしれないけれど,行儀良くしないという選択はできる。

良いことばっかりしなくても良いし,正しいことばかり言わなくても良い。楽しいいたずらを思い付いたらやってみたらいいし,宿題がつまんないなら投げ捨ててみたら良い。

ひとつ間違って欲しくないのは「やらなくていい」は,「やらないこともできる」という意味だってこと。やらない方がいいわけでもないし,進んでやらないを選びなさいって言ってるわけでもない。いろんな選択肢がみんなの前に拡がっていて,その選択肢のひとつとして「やらない」があるんだってことです。
そして,その選択肢を選ぶかどうかは君次第だということです。

いずれにしても
それは君たちの自由です。

その自由というチカラは他の人たちの行動や態度,言葉,あらゆるものからの制限をはねのけるものすごいチカラです。

けれど時にひとは簡単にその力を手放してしまいます。

簡単に「自分で決められる自由」を手放して,他の人に渡してしまうのです。

お母さんがやれと言ったから,僕は仕方がなく宿題をした。
本当は行きたくない英語教室にだって行かされている。

いいえ,行くかどうかを決めたのは君なんだよ。
行くのか行かないのかを決めることができるのは自分だけ。
決める自由を持っている君だけなんだ。

なのに,君は簡単にその決定権をお母さんに委ねた。
自分で決めずに,お母さんに決めてもらった。

それで,僕たちは自由じゃないって感じるんだ。

じゃあ,どうしてそんなふうに自分で決めることができる自由を手放してしまうのかを考えてみようか。

なぜひとは自由を手放すのか

ひとが自分で決めることができるチカラ,自由のチカラをなぜ簡単に手放してしまうのか。

それは「その方が楽」だからです。

自分で決めるのって本当はすごく大変なことですよね。

今日はどんな服着てお出かけしようか。
学校のクラブ活動,どの部に入るのか決めなくちゃいけないんだ。
あさっての試験の勉強しなくちゃいけないけれど,見たいテレビがあるんだよね。どうしようかな。
進路どうしよう。どの大学に行こうかな。就職ってあんまり考えてないし,専門学校に行ってもいいな。

みんなの人生は,そのほとんどが選択でできています。
僕たちは絶えずいろんな選択をしていて,その連続の結果として人生ができあがります。意識的に選ぶこともあれば,無意識に選んでいることもあるでしょう。

無意識に選択をするというのは,ひとにとってすごく大切な機能です。

もしもそのすべての選択を一生懸命考えて決めていたら,僕たちの頭はきっとパンクしてしまうと思います。

たとえば朝起きるだけでも,
目覚まし時計がなったよ。起きる?でもまだちょっと眠いよね。もう少し寝る?もう少しってどれぐらいかな,1分かな,5分かな。1分余分に寝ちゃったらどうなるのかな,学校遅刻する?

なんて考えながら
じゃぁ起きようか,起きるにはまず布団をはねのける?それとも左足だけ外に出す?いやまずは両手を布団の外に出して,なんて何から何まで考えていたら疲れちゃうと思います。

さらに人間の脳は体中のアンテナから絶えずものすごい量の情報を取り入れています。温度や湿度,音や視覚情報,何から何まで脳が処理しなくてはいけないのに,いちいち布団からどの順番で出るかなんて考えてられないのです。

だから日常的に当たり前になっている行動については脳はショートカットプログラムを作っておいて,慣れてきたらそれは自動的に選択できるようになっています。

たとえばどっちの足から家を出ようか,とか歯磨きをする手順とか,ドアの開け方とか,はやく走る走り方とか,ジャンプするときのチカラの入れ方とか,そういうのはすべてプログラム化されていて,自動的に選択ができるようになっています。

初めてのことはプログラムができていないので,ひとつずつ考えながら選択していかなくてはなりませんが,何度も繰り返しているうちにプログラムはできあがり,さらに繰り返すことでそのプログラムは強化されていっていつしか無意識にいつでもどこでも使えてしまう便利な機能になるのです。

そしてこれは行動だけに限りません。

考え方とか感じ方も,このショートカットプログラムの機能が働いています。

何度も同じような考え方や感じ方を繰り返すことで,プログラムができあがって,ひとつひとつ選択することなく自動的に考え方や感じ方を実行することができるのです。

犬を見てカワイイと反射的に感じるひとは,それまでの間に何度も犬を見てカワイイと感じることを繰り返したことで,自動的に犬を見たらカワイイと感じるようなプログラムが備わったのです。

繰り返さずとも強烈な印象があれば一度でオートマチックになることもあります。たとえば,ママが料理しているときにフライパンに触ったことがあるひとは,熱いというのがどういうことで,料理しているときのフライパンには触ってはいけないということを学び,自分から熱いフライパンを触るという行動はとらなくなるでしょう。フライパンは熱いから触らないというプログラムが一度でできあがったわけです。

(ちなみに熱いフライパンを触った瞬間に無意識に手を引くのは「反射行動」なので,考えて選択することはできません。最初から備わった機能です。反射行動しないように絶対に熱くても手は離さないぞ!って自分で決めて触ることはできると思いますが,いつまでも離さずにいることは難しいでしょうね)

あるいは,友だちから意地悪をいつもされていれば,その友だちが近づいてきただけで自動的に「意地悪される」ことを感じ取ることもできるようになるでしょうし,その友だちから自然に離れたいと思うのではないでしょうか。
このとき「本当に意地悪されるかどうかはわかりません」が,プログラムができあがっていれば「意地悪されるよ」と自動的に判断するのです。

最初は,なんとも思わなかった友だちのことを,繰り返し感じることでそれがプログラムされて,自動的に友だちを見たら嫌な気持ちになってしまうかもしれません。その友だちが「意地悪なひと」であるかどうかは本当はよくわからないのに「意地悪なひと」だと自動認識するようになるのです。

このことはすごく大事なことなので後でもう少し詳しくお話しします。

さて,人間のこの大事な機能のおかげで僕らはすべての事柄を考えて選択しなくても良いのですが,しかし大事なことは自分で考えて決めなくてはならないことはわかりますよね。

にもかかわらず,ひとは自分で考えて自分で決めることよりも,誰かに決めてもらう方が楽だと感じるのです。

誰かに指示されたり,命令されたことに従えば,何も考えなくて良いからです。

そして
もうひとつ誰かの言うことを聞いていれば考えなくてすむことがあります。

それは責任です。
誰かの言うことを聞いていれば選択した責任をとらずに済むと思っていて,その方が難しい選択をするときに失敗しなくて良いとか,失敗の代償を払わなくても良い,つまり,誰かの言うことを聞いたのなら「自分に責任はないのだ」と考えることができるのです。

責任のことを少し考えてみましょう。

自由と責任

僕たちは自由。僕たちに関するすべてを自分で決められます。

自分に関することすべてです。

明日学校で国語の試験があるとして,これから勉強するのかしないのか自分で決められます。

勉強するにしても,どんな勉強の仕方をするのか自分で決められるし,勉強の仕方がもしもわからなかったら誰かに聞いたり,調べたりすることもできます。

自分で決められることを簡単に他人に委ねてはいけません。自分で決めて良いという権利を他のひとに渡すなんて,絶対にダメです。みんなは生きているのだから,自分のことはすべて自分で決めるんです。自分のことを自分で決められないのは本当に辛いことです。自由が奪われるなんてことはあってはいけないのですが,たまにそうことは起こります。

自分のことを決める権利を相手に渡してしまった場合です。

自分で決めることを諦めて,生殺与奪の権を相手に握らせてしまう。そうして,その結果を相手に押しつけるのです。

あのひとが決めたのだから仕方がない。

お父さんの言うとおりにしたから失敗した。

だからお父さんのせいだ。

お母さんが行けと言ったからあの高校へ進学したのに,全然楽しくない。

友だちがいっしょにやろうと言ったからやっただけなのに。僕までいっしょに失敗した。叱られた。僕は悪くないのに。

誰かに責任を押しつけるためには,誰かに決めてもらったことにしなくてはいけないのですが,命令されたり指示されたりすることはそのためにとってもちょうど良いことなんですね。

誰かに決めてもらったことにしなくてはいけない。

ひとがとる行動は,結局のところ最後は自分が決めています。
命令に従うか従わないかを決めるのは自分です。その選択権は自分にあります。にもかかわらず「決めたのは自分のはずなのに,他のひとが決めたように振る舞う」とき,僕たちは誰かに決めてもらったことにしたいと心の中で思っています。

そうしないと自分が責任をとらなくてはいけなくなるからです。

でもそんな自由なんてないじゃん。
本当に最後は自分で決めているの?
やれって言われたからやっただけなのに。

じゃぁルールとか義務とかにも従わなくてもいいの?
約束を破ったって平気なの?

自由ってルールとか義務とかといっしょにあるものだ,セットになっているんだよとよく言うけれど,本当はそんなことはありません。ルールや義務は,守るように言われているし,守らないと罰を与えられるかもしれないけれど,だからと言って僕たちの言動を制限できるようなものではないのです。

ルールとか義務というのは,みんなが所属する集団。小さな社会ですね。

その社会をコミュニティと言いますが,あるコミュニティの中の規則とか法律とか,そういうみんながケンカしないように,みんなで決めた約束事のことをルールと言います。このルールはみんなが所属するコミュニティでそれぞれ決められたものです。

学校で決められたルールもあれば,家族で決めたルールもあります。

だからルールは守った方がいい。
守ることでみんなが幸せに生活できる可能性を持っているのだから,協力することが僕たちにできる最良の選択です。

しかし,ルールを守らない自由もあります。ルールに対しておかしいと感じるのなら,そのルールはおかしいと声を上げる自由もあります。

ルールは僕たちを幸せにしてくれるためのものですから,もしも幸せにしてくれないのならルールは僕たちの自由を阻害するものということになります。

ルールを守ることが大切なのではなく,みんなが幸せに生活することが目的なので,もしもそうでないなら変えても良いのです。

けれどもルールはルール。

みんなで決めたルールなのですから,それを破れば例えば罪とか罰とかそういうものを科せられることはあるでしょう。

そうならないように決められた手順を踏めばよいのですが,そういう手順すら許されないこともあるでしょうから,どうしても自分が我慢できないようなことなら,ルールを破るという自由もあることを知っておいて下さい。

でも勘違いしないでほしいのは,ルールを破るという自由があるということは,ルールを破っても平気だという意味ではまったくありません。

ルールを破っても良いということになれば,困る人がたくさんいるだろうからです。

ましてみんなで決めたルールなら,ルールを守るという約束をみんなも承諾しているということですから,そのルールを守るべきだというのはすごく当たり前のことです。

義務や規則ってじゃあなんなんでしょうか。

自由というのは本当に好きなことだけやってればいいじゃん!ということでしょうか。

自由というのは根源的なものですから,生まれながらにしてみんながもっているものです。人生の原則とでも言っておきましょうか。
原則というのは,普遍であり,誰も逃れることができないものです。公理とか定理とかいうのと同じです。

原則に対するのは,もうひとつの原則です。
ひとが変えることができない原則をもって,自由の調整をします。

自由に対して唯一あるのは責任です。
自分で決めたことに対する責任はあります。

責任というのは,自然に負うもので,逃れることはできないものです。あたかも逃れているように感じることはあるかもしれませんが,きっとそれは本当じゃありません。責任から本当の意味で逃れることは宇宙の法則に逆らうことと同じです。

たとえばルールを破ったらどうなるでしょうか。
先生に叱られる?
罰を与えられる?
お小遣いを減らされたり,拳骨喰らったりするのかな。

義務を果たさなくてもたぶん同じかな。

しかしこれらは決められた結末ではあるけれど,逃れることはできます。罰を科せられることはあっても,だからルールを破る自由がないのか?というとそんなことはないし,罰だって受けなくてはいけないのか?と問われれば受けずにうまく立ち回ることはできます。

そのひとつひとつも選択の連続で,自由に決定できるものです。

自由に決められるのは自分のことだけなので,罰を受けないと決めたとて,罰を与えようというひとがもしいたらきっといろんな手段をつかってあなたに罰を与えようとするでしょうから,罰を与える人と与えられたくないひとの自由は競合(ぶつかってどちらかが勝ち,どちらかが負けること)してしまいます。
そうしたらどちらかが自分の選択を変えない限り,いつまでもぶつかり合うか,どちらかチカラの強い方が見た目の勝利を得るということになります。

しかしたとえばこのとき,罰から逃げられたとして,責任から逃れていることになるでしょうか。
責任を負うことは原理原則です。
否応なく背負うことになるのですから,逃れることはできません。罰を受けないように逃げ回ったとしても,罰を受けなければ心は休まらないでしょうし,ルールを破ったことで「友だちからの信頼を失う」という責任を負うでしょうし,「先生からの期待を失う」こともあるでしょう。もしかしたら「自分自身も信じられなくなる」かもしれません。これが言わば悪い責任の取り方です。

ルールを破ってもそれを反省し,しっかりと罰を受けたうえで,次はルールを守るよ,と考えることができればそれは良い責任の取り方をしたと言えます。

そういうふうに責任からは逃れることはできないのですから,もしもルールを破ったりしたなら良い責任の取り方をして欲しいと思いますが,選択する自由はありますから,みんながどうしても嘘をつきたいとか,ルールを破りたいとか,悪いことしたいとか,そう考えるのなら自分の人生を掛けてそれを選択することはできます。

だから
誰かに言われてやったとか,誰かに命令されたとか,お父さんやお母さんが決めちゃったとか,そんなふうに考えることはやめた方がいい。
いずれにしても決めているのは自分だし,どんなふうに責任転嫁をしたって責任からは逃れられないのです。

誰かのせいで
アイツのせいで
お父さんのせいで
僕は悪くない
何にもしてない

そんな言葉をいくら並べても,自分のことはごまかせません。自分は「自分で決めたこと」を知っています。僕らは果てしなく自由で,自分のことはなんでも決められるのです。

簡単にそのチカラを他人に委ねてはいけないのです。

他人に委ねてしまっては結果に責任を持ちたくなくなってしまいます。
責任をとりたくない,そう思うような責任がのしかかって,思わず自分で決めたわけじゃないから僕のせいじゃない,と言いたくなってしまいます。

どんな良いことも,悪いことも,自分で一生懸命に考えて,一生懸命に決めたならどんな結果になっても責任をとる覚悟が生まれます。
責任をとりたくないなんて感じません。

みんなは自由です。
全部自分で決めて良いのです。
好きなことをしてもいいし,嫌いなことをしなくてもいい。
嫌いなことをしてもいいし,好きなことをしなくてもいい。

自分の人生の責任をとる
ただそれだけを強く意識して選択すればいい。

人生は選択の連続です。
その選択をひとつも間違えずに,選び続けることはできません。
たくさん失敗するでしょう。
たくさん後悔もするでしょう。
けれどそのひとつひとつは自分で考えて自分で選んだ。
そのことに誇りを持てるような選択をして欲しいと思います。

一生懸命に考える
ということは,一生懸命に決断することにつながり
一生懸命に決断したなら,一生懸命実行に移すことができるでしょう。

感情も自由に決められる

さて,もうひとつ自由について話しておかなくてはなりません。

自分で決めることができるのは行動や言葉だけではありません。感情とか意志とか,考えとか,感じることとか,そういう目に見えないことだって決められます。おおよそ未来に関することならなんだって決められるんです。

たとえば,疲れているとか,眠たいとか,やる気が出ないとか,あたかも自分の意志ではどうにもできないように思うかもしれないけれど,本当は自分のことはすべて自分で決められるんですね。

たとえば朝からすごく嫌なことがあったとして,その日一日をどうやって過ごすのかを考えてみてください。

朝からすごく嫌なことがあったのだから,一日嫌な気持ちになっちゃうよね,って思ったとしてもそれは嘘です。

朝嫌なことがあったことは変えられないし,そのとき嫌だなーと思ってしまったことを後から変えることはできないけれど,このあとどんな気分で過ごすかは自分で決められますよね。

嫌なことを思い出しても無視。嫌な気持ちが少しだけ戻ってきても無視。嫌なことは,もうこのあとの気分には関係がないことです。

あ,でも,これから起きることに関係したことで,朝から嫌な気分になることもあるよね。

でもこう考えてみたらどうでしょうか。

朝起きた嫌なことが,もしもこの後に起きる何かについてのことだとしたら,逆にチャンスじゃん。なぜなら,朝それに気が付いて嫌な気持ちになったのなら,この先に起きる何かについて対策が練られる。未来を考えて,変化を起こすことは僕たちにもできる。わずかな変化で良いんだ。間違いなく嫌なことが起きるとするなら,ほんのわずかでも良い方向へ変えられる新しい案を考えるんだ。

そのための時間を持てるんだから,チャンスでしょ。

怒ったり寂しがったりすることも自分で決められます。

怒るなんて自分で決めてないよ。
怒ったり怒らなかったりはコントロールできないじゃん。

なんて思うかもしれないけれど,実はそんなことはありません。怒ることは自分で決めて,自分で怒っているのです。

たとえば,お母さんがみんなのテストの点数を見て,もっとがんばりなさい!と怒ったとします。

お母さんがものすごい勢いで怒っているのは,お母さんはコントロールできていないからだと思いますか?怒りに我を忘れるとは言うけれど,本当にお母さんは我を忘れてみんなを怒っていると思いますか?

いいえそうではありません。

その証拠に,たとえばお母さんがみんなのことを怒っているときに,電話が鳴ったとします。着信表示を見るとお母さんが勤めている会社の上司からの電話のようです。

次の瞬間,お母さんはそれまでの怒鳴り声のまま電話に出…たりはしませんよね。

急によそ行きの声になって,「あどうも,お世話になっております-」なんてお上品に電話に出ることができますよね。

これは怒りを向ける対象を選んでいるのです。
怒りを誰かに向けるとき,ひとは「このひとなら怒っても大丈夫だ」と思っているんです。対象を選ぶことができるのだから,怒るのか,怒らないのかを自分で決めることができるのは当たり前です。

その場で怒ることを止めて,もっと良い選択肢を選ぶこともできます。

怒るというコミュニケーション手法は実のところもっとも幼稚な手法です。赤ちゃんや幼児が気に入らないことがあって大きな声で泣いたり,怒ったりするのと同じです。

大きな声をあげて自分の思うとおりにしようとしている,つまりみんなの行動を制限しようとしているのです。
そしてその手法が最も手っ取り早くて,お手軽な方法だと考えているわけです。

みんなの行動に影響を与えようと思えば,怒るよりもスマートなやり方はたくさんあります。説明して,いっしょに考えて,調べて,相談して,なんてやり方はいろいろです。

けれど怒るという方法をとることができる相手に対しては,いちばん簡単にできると思っているのです。

このように「怒る」ということについても,そういうふうにプログラムができあがってしまっていると考えることができます。怒るタイミングや怒る理由,原因,そういうものがあって自動的に「怒る」という選択がされるようになるんですね。

これらはすべてプログラムされていることだから,まるで自動的に決められてしまって,自分が決めたり,選択したりすることができないことのように感じているだけで,本当はプログラムされていることでも自分でそのプログラムを変えることだってできるんです。

怒るは,自分で選んでいること。
逆に言えば自分で選んでいるのだから,違う選択肢を見つけてそれを選ぶこともできます。

いつでもです。

だから僕たちは,僕たちに関することは全部自分で決められる。
自由ってそういうチカラです。

感情や感じ方まで自由に選択できるなら
みんなの行動の幅は今よりもっともっと拡がります。

犬を見て怖い

と思っているひとがいたとして,
今までは怖くて近寄れなかったけれど,もしもこれを変えることができれば,犬を抱っこすることができるかもしれません。

算数嫌い

と思っている人がいたとして
今までどうしてもやる気がでなかったのだけれど,もしもこれを変えることができれば,算数が得意になって授業も楽しくなるかもしれません。

テストの点数が悪いから私はバカなんだ
バカだから勉強なんてやっても無駄だ

と思っているひとがいたとして
テストの点数は,今の私の力だ。
しっかり答案を見直してみたらケアレスミスも多かったし,全然わからなかった問題も案外できそうなことに気が付いた。点数を一気に倍にはできないかもしれないけれど,あと5点ぐらいならなんとかなるかも。だったら次のテストでは今よりももう少しだけできるように今から勉強してみたらいいかも,なんて思えるかもしれません。

僕たちは自由を駆使して生きる

繰り返しますが,みんなは生まれながらにして自由なのです。
だからそのチカラを簡単に手放してはいけません。
どんなときも自由な発想で,自由に未来を描いて欲しいと思います。

もしも何かに縛られていると感じたら,その何かをまずは突き止めて下さい。自分で自分のことを縛っているかもしれません。お父さんやお母さんがあなたを縛ろうとしているかもしれません。学校や社会の当たり前があなたの考えを縛ろうとしていることもあるでしょう。

~しなくてはいけない。
~したほうがいい。
~すべきだ。

そんな言葉に騙されないでください。
~しなくてもいいかもしれない。
~しなかったらどうなるのかな?
~したほうがいいとは限らない。
~したほうがいいかもしれないけど,しなくてもいい。
~すべきなのはわかっているけど,今はできない
~すべきなのは本当?
~する以外にはどんな方法がある?
~するだけじゃなくって,もっと~したらどうかな。

こんなふうに自由を駆使して,可能性を拡げて下さい。

それでもひとは時々このことを忘れてしまいます。
僕だってしょっちゅう忘れて,子どもたちに「勉強しなきゃだめだろー」なんて言ってしまうことがあります。

自分はこうでなくちゃだめだとか,自分はこうしなくちゃいけないんだと思い込んだ瞬間,プログラムは作動してしまいます。

そんなときは作動したプログラムに早く気付いてあげて下さい。プログラムに気が付くことができれば,そのプログラムを改造したり,使うのをやめたり,別の使い方をしたりすることができます。プログラムの改造は簡単ではないけれど,気が付いたみんならきっとできますよ!

まずは気が付くこと。
気が付いたら,まずはそのプログラムを観察してみて。
問題の根源を見つけたら,本当にそうじゃなきゃだめかなともうひとりの自分に聞いてみて。
プログラムはみんなから生まれたものだから,みんななら書き換えられるし,みんなしか書き換えられないものなんだ。

もしかしたら友だちのプログラムに気が付くことがあるかもしれません。そういうときは「~でないとどうなるのかな」と聞いてみてください。決して「書き換えなさい」って言わないであげてください。
なぜかというと,プログラムって簡単には書き換えられないし,自分で気が付いて,なるほどって思わない限り,書き換えたいとも思わないものだからです。
自分に便利につかうために,無意識に創り上げたプログラムだからね。

自由は僕らの強い味方

さて,自由ってことよく考えてもらえたでしょうか。
ぜひ時々はお友だちとこんなことを考えてもらえるといいですね。考えの幅はいろんなひとと意見交換をすることで拡がりますし,それぞれ見えている場所も違いますからすごく勉強になりますよ。

僕らは自由。
何をしてもいいし,どこに行ったっていい。
何を好きだと思ってもいいし,何を嫌いだと感じてもいい。

自由は僕らの強い味方なのです。

自分で決められることの例外(蛇足コラム)

例外の感情があるとすれば,「不安」や「恐れ」はもっと根源的なものなので,コントロールはできないと思います。だから僕らは不安や恐れが心の底から生まれてきたなと思ったら,その気持ちをしっかりと受け止めて,和らげてあげることが大切です。

不安や恐れは,危険を察知するための大事なセンサーなので,取り除くことはたぶん難しいでしょうけれど,センサーが働いたあとその危険の原因を探ったりして危険ではないことがわかれば安心できるのです。

たとえば,ひとりぼっちで寂しいと思う気持ちは変えられませんが,ひとりぼっちで不安だと感じたこころを癒やしてあげることはできます。

ひとりぼっちで不安を感じた自分を大切にしてあげることはできます。そうして不安を和らげたり,不安もあるけれど,ひとりで居るのも悪くないなとかひとりで居るとこういう良いことはあるな,とか考えることもできます。これは自由です。

不安や恐れを根源的な感情として,そのうえに何か違う感情や行動を載せることはよくあります。こういうのを二次感情とか言ったりしますが,たとえば,夜遅く帰ったあなたをお父さんが玄関で待ち構えていて,ドアを開けるなり「今何時だと思っているんだ!遅い!もっと早く帰ってきなさい!」って怒っているとき,お父さんの根源的な感情は「あなたがどこかで事故にあっていたりしないか,事件に巻き込まれていたりしているんじゃないだろうか,あなたがいなくなったりしたらどうしよう」という不安と恐れです。

大切なひとがいなくなるかもしれないという不安は,本当に心細く,心臓をぎゅっと捕まれた気持ちを産みます。その不安が解放される瞬間,「あなたが無事に帰ってきてくれた」瞬間に安堵に代わり,不安は解消されます。

結果,遅く帰ってきたあなたに対する怒りに変換されて外に出てしまうというアルアルです。

お父さんの怒鳴り声とお説教の本当の意味は「あなたが無事に帰ってきてくれてよかった。うれしい。本当にうれしい。」です。

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