怒る と 叱る の違いってなに。
怒っちゃダメ。叱るんです。
というような話をよく聞くのですが,僕はあんまりこれに馴染めません。
「怒る」と「叱る」の違いが実はあまりピンとこないのです。
叱っているとき,たいていの場合大人は「怒って」いますし,怒っていなければ「叱らない」のではないかと感じているのです。
これらの違いを述べている書籍やブログなどでは
子どもが適切でない行動をしたとき,大人はそれを論理的に教えてあげるべきで,それを「叱る」と表現しています。
また,そうではなく感情的に怒鳴りつけたり,叱り飛ばしたりすることを「怒る」というのだと説明しています。
つまり感情的にならず,駄目なことをなぜ駄目なのか?をふまえて丁寧に言い聞かせることをオススメしていて,同じように駄目だと言うのでも,前述のとおり大きな声で押さえこむように,あるいは暴力的に支配することはいけないのだとしていることが多いです。
さて,「怒り」というのは,いわゆる二次感情といわれるもので,ある一次感情,根源的な感情が根底にあってそのうえで意識的に利用する感情だと言われています。
たとえば不安や悲しみを違った形で表現しているのです。
その証拠に,怒りは自分の意志でコントロールすることができます。それも瞬時に。
子どもたちに向かって鬼の様相で怒っているお父さんお母さんの携帯電話が今鳴ったとします。どうやら上司(あるいは学校の先生から)からの電話のようです。
仕方なく,携帯の通話ボタンを押しますが,その瞬間,さっきまで怒りにそまっていた声はあっという間にいつものよそ行きの声に変わります。本当に一瞬です。
目上のひとや,一目置いているひと,恩人や尊敬するひとに向かって容易に怒りの感情は向けないのです。
これはつまり,怒っていい人と,そうでない人を我々は無意識に区別し,瞬時にコントロールしていることを示しています。本当に根源的な怒りというものがあるのなら,その問題が解決しない限り,簡単には怒りは消えないのではないかと思うのです。
反対に不安や悲しみは,こんなふうにコントロールできません。
一瞬,上向いたとしても,やはり根本的な問題が解決しなければ ―ここでの解決というのは必ずしも問題,障害や障壁が取り除かれることを言うのではなく,それを無視したり,よけて通ったり,あるいは一時的にその存在を忘れるなどの様々な方法で,一次感情の元となっている事柄を「問題視していた状況」が回避されたことを指します― 結局は元に戻ってしまいます。
叱るということを考えてみましょう。
我々は社会規範からはずれた行動を子どもがとったときに,それを正しく教えてあげる義務はあると考えています。
一方で,自分は社会規範から外れて行動する可能性を否定しません。
このことがどうも僕には「叱る」ことが必ずしも,感情と切り離された論理性によってとられている行動とは限らないことを示しているように感じられるのです。
自分の行為が正当であるか否かは,社会規範に照らすものではなく,自身の評価軸に照らすものです。子どもたちを叱るときも同様に自身の評価軸に照らします。そして,反すると感じるのか,そうでないと感じるのかの分かれ目は「感情に触れるか,そうでないか」ではないでしょうか。
自分がそれはおかしい,と思うことを説明(説得)するとき,果たして我々は論理性を担保できていると言えるのか?という意味で僕はつい「あぁ俺はそうでもねぇなぁ」と思ってしまいます。だとすれば「叱る」の始まりは,「イラッ」とか「え!?それおかしくね?」とか「ハァ?」みたいな感情ではなかろうか,と思うのです。
叱るということは,その前提としてたいてい怒ってるじゃんと考える理由は他にもあります。
前述のとおり単純に自分の場合はそうだ,というのもあります(あるいは本当はそれだけなのかもしれませんが…)。
まず自分の価値基準に照らし,それから外れるものを子どもに対して修正を求めるのですから,その基準が適切で在るかどうかと関係なく,叱ろうとするわけです。
このときの原動力ってなんだろうか?と考えると,「思うとおりにしたい」「なって欲しい」という個人的な想い(それは一方的な期待かもしれません)から生まれているような気がします。
これはすなわち「強制的」とか「支配的」とか場合によっては「暴力的」と言い換えることができてしまいます。
それらの個人的な想いから外れた子どもたちに対して,ある種の強制力を発揮するという文脈で「怒っている」のとあんまり変わらないかも,ということです。
怒る叱るに代わる,シン提案。
なので,ひとつ提案です。
叱るでもなく,怒るでもなく,
「(理解と変容を一方的に求めることなく,ただ)説明する」とか
「問う」,「提案する」というのはいかがでしょうか。
自分の主張をしっかりと伝えることは,コミュニケーションとしてはレベルの高い手法ですからそうそう簡単にはできないと思いますが,Win-Winを目指した主張は,所属コミュニティ全体に効果をあげ,底上げをするものですから,目指すところはまずそこかなと考えました。
第一に,子どもたちが「適切な行動」を知らない可能性
第二に,子どもたちの自由を尊重すること
このふたつがポイントです。
大人としての良識や社会規範に沿った行為について説明する。そのうえで,なにを選択するのかは子どもに委ねる。それはもとより子どもたちの権利であり,ひとである以上,大人と同等にそれを決めることができると考えるのです。
子どもたちが適切な行動を自分で考えて,とる。ある種の強制性をどのようにして排除するのか?に僕はよく頭を悩ませますが,冷静に考えているときはこんなふうに落ち着きます(これを即座に行動にうつせるのか?というとそんな簡単にはいかないです!)。
子どもを叱ろうとするきっかけがあったとき,まずは彼らにその意図や背景を問います。
何がしたかったのか。何が目的だったのか。(なぜ?ではなくて,なに?を問います)
そして,十分にその内容を検討のうえ,新たなWin-Win提案をします。
(親に)怒り(叱り?)の感情発生!
⇨真意を問う
⇨内容検討・相談
⇨修正案の提案
⇨(子が)行動や考え方を決定
ほら,なんだか少し論理的になった気がしませんか!?
そんな悠長なことやってらんねぇよ,という声が聞こえてきそうな気もしますが,まぁ悠長なことやってらんねぇ局面は必ずあるので,そこは親の権限で強制的に排除・修正は可能です。机のうえの水が入ったコップで遊んでいる子どもに「倒してこぼれそうだな…やめてくんないかな」と思うことと,100度の熱湯が入った鍋で遊ぼうとしている子どもに「あ,あぶないなあれ。やめさせようかな」と思うことでは,状況は全く異なるので,後者であれば問答無用で強権発動すべきです。
これは親の特権というか,親の責任です。
彼らが自立するまでは彼らの命を守るための親の行動に対して,子に自由はありません。
本稿ではわりとグレーな話をしているので,あんまり極端に考えず,気楽に考えて下さい。
ところで,「適切な行動」ってなんでしょうか。
僕たちは社会全般,所属コミュニティがそのとき総意として望んでいることが「適切な行為」と考えます。そうでないものは「適切でない」と考えています。
適切なのか,そうでないのかは,主観によるものが大きく,結局「適切な行動」を伝えるということは大枠で「誰かの価値基準に従って生きることを強要している」のでは?と感じるかもしれませんが,よく考えてみると適切かそうでないのかの曖昧なところは確かにそのとおりですね。とは言え「わたしの価値観」に比べればもう少し具体化していると思いませんか?
グレーゾーンでないハッキリとした「社会全体がOK」とする行為とそうでない行為はある程度具体性をもっていて,それに則った行為を「適切な行動」と考えてみてほしいのです。
ルールや法律はそういうふうにつくられていますし,そうでないルールや法は,社会の総意で修正,工夫されていかなくてはいけません。時代や人々の考え方が変化すれば適切な行動も変化するのでしょう。しかし,不変・普遍・不偏の定理もあるでしょう。子どもたちに何かを諭すとき,普遍の原則を念頭に置いておくことです。
いえ,いやしかし子どもたちに諭すときだけでなく,我々の行動規範とても同じです。
結局のところいちばん効果的な「叱る」の代替案は。
我々の行動が適切でないのに,どうやって子どもたちは適切を知るのでしょうか。
たとえば子どもたちが適切でない行動をとっているときに,怒鳴りつけたり,叩いて叱り飛ばせば,その行動が適切であると彼らは理解します。
後に修正が入るまでは,怒鳴ったり,叩いたりすることも「教育」の範囲でありそれが社会規範であると考えるでしょう。もしかしたら適切な修正は一生入らないかもしれません。
だからこそまずは我々は我々の行動を適切なものにしたいと考えてみましょう。
そうです。子どもたちに教えるのが親の務めとするなら,親は「叱る」より「怒る」より,ずっと効果的な方法がありますよね。
子どもたちを叱ったり,怒ったり,諭したり,教えたり,そういうことの難しさはさておき,もっとも簡単で,もっとも効果的な方法は「率先垂範」です。親の行動を子どもたちはみて育つのですから,我々がまずは適切な行動を心がけることが結局のところ何よりも大事なことです。
もっと単純に,「他者の行動を正すことは直接は無理」ですが,「自分の行動を考えて修正していくことは直接できること」です。ものすごく建設的で,すぐにでも行動に移せることですから,ちょっとやってみようと思ったひとはぜひ一度試してみましょう。
あるいは,100点満点の適切な行動をとれる自分がそんなに簡単ではないと気付くことで,子どもたちの不適切な行動に対して,腹が立つことも少なくなるかもしれません。
そんなふうに,時々僕は内省を重ねています。
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