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ミライデザインラボ

親と子のコーチング

親と子のコーチング/一つ目の物語

第1話|止まった机の前で

放課後のミライデザインラボは、静かなざわめきに包まれていた。
ホワイトボードの前で宿題に向かう子どもたちの気配。鉛筆の細い音。

その中を、里奈はひとつひとつの机を覗き込みながら歩いていた。
入社して二年目。ようやく子どもたちの表情の“揺れ”が読めるようになってきた頃だった。

その日の最後に、事務室のドアがそっと開いた。

「すみません……今、少しだけお時間いいでしょうか」

控えめな声が響く。

佐伯美咲──中学1年の男の子を育てる母親で、数日前に「相談に来たい」と電話をくれた人だった。

「もちろんです。どうぞ」

ソファに腰を下ろすと、美咲は両手を膝の上でぎゅっと組んだまま、少し俯いた。

「……あの、うちの子、全然やる気がなくて。
もう、机にも向かわないんです。言えば言うほど、黙り込んでしまって」

その声には、怒りよりも戸惑いと不安が滲んでいた。

「“やる気がない”って、具体的にはどんな様子なんですか?」

そうやさしく問い返すと、美咲は小さく息を吐くように語り始めた。

「宿題はあるんです。でも、帰ったらまずスマホを触って……
 “後でやる”と言ったきり、結局やらずに夜になってしまって。
 声をかけると、イライラした顔で『今やろうと思ったのに』って。
 その言い方にも私がまたイラっとしてしまって……もう、悪循環なんです」

言葉を重ねながら、目の奥が少し赤くなった。

「私、そんなに厳しくしたいわけじゃないんです。ただ……
 このままじゃ、あの子が困るんじゃないかって。
 ちゃんとした大人になれないんじゃないかって……」

“未来への不安”。
多くの保護者が抱える共通の痛みが、美咲の声の震えにそのまま表れていた。
里奈は頷きながら、慎重に言葉を選んだ。

「佐伯さん……ひとつ確認したいんですけど。
 “やる気がない”と言い切れるほど、
 真尋くんは何もしていないように見えるんですか?」

「……はい。
本当に、もう、机の前で固まっているだけで」
「固まっている?」
「ええ。なんというか……“やらない”というより“動けない”って感じです。
 あの子の中で、何が起きているのかわからなくて……私もどうしたらよいか……」

その一言を聞いた瞬間、里奈の胸の奥で、小さく何かが引っかかった。
(“動けない”……?
 これ、ただの怠けじゃない。
 でも……私はこれをどう言葉にすればいい?
 どこから話せば、この人は安心できる?)

まだ、明快な答えは持っていない。
だけど、確実に言えることが一つだけあった。

「佐伯さん。まず、お母さん自身がいま、とても不安ですよね」

美咲は驚いたように顔を上げ、その後、ゆっくりとうなずいた。

「……はい。怖いんです。
 私がちゃんとしないと、あの子の未来が壊れてしまう気がして」

その言葉の重さに、里奈は深くうなずいた。

「その気持ち、すごく大事ですよ。
 佐伯さんの不安が悪いわけではありません。
 ただ、真尋くんの“動けなさ”は、
 もしかしたら佐伯さんの不安と少しだけつながっているのかもしれません」

「つながって……?」

美咲の眉がわずかに寄る。
里奈は続ける言葉を慎重に探した。

「今日は無理に全部を理解しようとしなくて大丈夫です。
 ただひとつだけ……
『やる気がない』と判断する前に、“真尋くんの状態”を一緒に見ていきませんか?」

美咲はその言葉に安心したように、肩の力を落とした。

「……お願いします。
 私、どこから間違っているのかぜんぜんわからないんです」

里奈は微笑んだ。

「大丈夫です。一緒に探していきましょう。」

——この瞬間、里奈はまだ気づいていなかった。
この相談が、彼女自身のコーチとしての成長を大きく押し出す“最初の扉”になることを。

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