第3話|変わるのは、いつも“一番深いところ”から
翌週の相談日。
ラボの窓の外には薄い雲が流れ、
秋特有の湿った風が校庭を撫でていた。
いつもより早く来た美咲は、
待合ソファに座りながら落ち着かない様子で指先を動かしていた。
「佐伯さん、お待たせしました」
里奈が声をかけると、美咲は立ち上がり、
胸の前でぎゅっと手を組んだ。
「……あの、今日は報告があって」
声が震えている。
泣きそうというより──“何かをつかんだ人の震え”に近かった。
「この前お話ししたあと、
私……気づいたんです」
「気づいた?」
「はい。
私……“やらせよう、やらせよう”としてばかりで。
真尋がどんな気持ちで座ってるのか、
まったく見ていなかったんだって」
美咲の表情は、
何かが腑に落ちた人特有の静かな明るさを帯びていた。
「『早くしなきゃ』ばっかりで、
あの子が“怖がってる”ように見える瞬間を、私、全部見逃してました。
怒られるのが怖いんじゃなくて……
“失敗すること”が怖かったんだと思います」
里奈はその言葉に小さく息を呑んだ。
(……すごい。こういう“自分への気づき”を
誰かに言えるって、簡単じゃない)
「で、あの……
その日、何も言わずに、ただそばに座ってみたんです。
言葉をかけなくても、
そこに“いる”だけにしてみたら……」
「……どうなりました?」
美咲は少し照れたように笑った。
「真尋……動いたんです。
あの子、自分から、ノートを開いたんです」
その瞬間、里奈の胸に温かいものがじんわり広がった。
「すごい……それは本当に大事な一歩です」
「奇跡みたいでした。
たぶん、私の“焦り”を感じて、あの子ずっと動けなかったんだと思います」
美咲は続けた。
「『やりなさい』って言われると苦しくなるのに、
何も言われないと逆に不安で……それで動けなかった。
あの子、そんな状態だったんじゃないかって」
その分析は、たしかに美しいほど当たっていた。
(親の“圧”と“放任”の間で揺れる子ども……
その真ん中にある、“安心”が抜けていたんだ)
里奈は静かにうなずいた。
「佐伯さん……
”待つ”という関わりは、ただ放っておくことではありません。
佐伯さんがやったのは、
“安心させて待つ”という、本当に難しい関わりです」
「……そんなふうに言ってもらえると、嬉しいです」
美咲の目が、少し潤んだ。
「ただ、“動いた”のは一回だけです。
次の日はまた固まってしまって……
でも、前ならそこで『なんでできないの』って言ってたと思うんですけど……
その日は心の中で『そりゃそうだよね』って言えたんです」
里奈の胸に、また温かいものが差し込む。
(そうだ……
“すぐできなくなる”のが、本来の子どもの姿。
その波を受け止められるのが、親ラボ式の“強さ”なんだ)
美咲は続けた。
「そしたら……
その日の夜、真尋が自分から言ったんです」
里奈は息を止めた。
「『……今日、うまくできんかった』って」
声は小さく、けれど誇らしげだった。
「そう言えたのは、お母さんが“責めない空気”を作ったからです。
真尋くん、ようやく自分の状態を言えたんですよ」
美咲は何度も頷いた。
「はい……私、あの一言だけで、泣きそうになりました」
里奈は胸の奥で、自分に言い聞かせた。
(私は“技術”を渡そうとして失敗したけど、
お母さんが“安心”を作ったら、子どもは動いた。
この仕事の本質は……ここにあるんだ)
その実感が、里奈の背筋を少しだけ強くした。
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親と子のコーチング序章
親と子のコーチング一つ目の物語
親と子のコーチング一つ目の物語②


