第4話|それでも前に進む、という力
相談から三週間。
外はすっかり秋の匂いになり、夕方のラボには冷たい風がすっと入り込んでいた。
里奈は、相談室に入ってきた美咲の表情にある変化をすぐに感じ取った。
表情の影が、薄くなっている。
息の仕方が、前よりゆっくりしている。
「佐伯さん、何か……いいことがありました?」
美咲は照れたように笑い、バッグから1枚の紙を取り出した。
「これ……見てください」
そこには、真尋が自分で書いたメモが貼られていた。
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《今日やれそうなこと》
・理科のプリントの半分
・英語のワーク1ページ
できんかったら、また明日やる
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里奈は思わず息を吸い込んだ。
「真尋くん……自分で書いたんですか?」
「はい。
『今日はできるとこだけやる』って、自分で」
その声は、誇らしいというより、
胸の奥からゆっくりあふれてくる幸福のようだった。
「すごいですね、佐伯さん。
これは立派な“自走の始まり”ですよ」
美咲はそっと目を伏せ、静かに言った。
「私……気づいたんです。
あの子は、できる日とできない日があっていいんだって。
どれだけ言っても、すぐに変わるものじゃないんだって」
その言葉は、以前の“焦りと不安”の層を何枚も剥がしたような澄んだ響きを帯びていた。
「この三週間、できない日は……
心の中で“そりゃそうだよね”ってつぶやきました。
責めないでいられた日は、真尋も落ち着いて……
自分から『今日はここまでできた』って言ってくれたんです」
里奈は胸の奥で強くうなずいた。
(この人は……
本当に、“関係を整える”ことの意味を自分の言葉で理解したんだ)
美咲は続けた。
「でも……まだできない日もあります。
昨日なんて、全然進まないまま寝ちゃって……
でも、不思議なんです。
“ダメだ”って思わなかったんです。
“こういう日もあるよね”って、本当に自然に思えた」
その言葉を聞いたとき、
里奈は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(ああ……
私は、やっと理解した。
“変化”って、こうして起きるんだ)
「佐伯さん……
いまの真尋くんに必要なのは、毎日完璧にできることではありません。
できなくても大丈夫だと思える場所なんです」
美咲はゆっくり、ゆっくりとうなずいた。
「はい。
私……やっとその意味が分かりました」
里奈は、三週間前の自分を思い出していた。
何か役に立つ方法を探して、焦ってアドバイスを投げた自分を。
あのときの自分と、いまの自分は違う。
(技術じゃなく、関係を整えること。
親の不安を一緒に見ること。
子どもの“状態”に寄り添うこと。
コーチングって、こういうことなんだ)
里奈の胸に、静かだが確かな実感が満ちていく。
「佐伯さん。
変わるのはいつだって、一番深いところからです。
行動より先に、安心が変わるんです」
美咲はほっと息を吐いた。
「……あの、里奈さん。
私、思ったんです。
あの子が前に進める日は……
私自身が落ち着いている日なんだって」
その気づきは、この三週間のすべてのプロセスを象徴するようだった。
「それは、真尋くんにとって最大の力ですね」
美咲は小さく笑い、バッグを閉じる手つきがどこか軽くなっていた。
「ありがとうございます。
私、もっと“協力”できる気がします。
あの子の未来を、あの子と一緒に支えたいって思えています」
帰り際、美咲は一瞬だけ振り返った。
「不思議ですね。
あの子が変わるようにって思ってたのに、
変わったのは私のほうだったんですね、
その言葉は、里奈の胸の奥にそっと刻まれた。
(——そうだ。
変わり始めるのは、いつも親と子の間の空気からだ)
そしてその瞬間、里奈は少しだけ背筋を伸ばした。
コーチとしての自分が、ひとつ階段を上がったような気がした。
◆ 行動指針
できた日より、できなかった日に問いかけてください。
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「今日は…どんな気持ちだった?」
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行動ではなく 状態を聴く。
その積み重ねが、
子どもが自分の足で未来へ進むための最初の灯りになる。