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ミライデザインラボ

室長ブログ

お父さんとお母さんを支援する相談室#2

大学生から直接の相談を受けた内容でとても興味深かったものがあります。

僕の立ち位置として,ギチギチの専門家ではないという点で,一般に相談しづらいような内容が舞い込むことはあります。

たとえば,大学では学生相談窓口が必ず設置されているものですが,「学生相談室」というとなんとなく仰々しく,しょうもない質問とか相談をするのははばかられる印象はあります。

これは一般にカウンセリングなどを受けてみたいと思っているひとたちにも当てはまるようで,カウンセリングに行くために必要な条件というのを勝手に設定していることがあります。

カウンセリングを受けることができる条件
・それなりに悩んでいること。
・それなりに「ちゃんとした」悩みであること。
・落ち込んでいたり,うつむき加減だったり,いわゆるネガティブな気持ちであること。

そんなことないです。
そんな条件ひとつもないです。
わかりやすく悩んでるひとしか相談できない相談室なんてないです。

#もしもあったらなんかスミマセン 。

実際にあった相談事例(1)

友だちってどうやってつくるんですか?

この相談を最初に受けたときの僕の衝撃は筆舌に尽くしがたく,しかしそれは激レアケースというほどでもなく,僕はこういうストレートな相談を何度か受けていますので,大学生でも友だちの作り方知らない人結構いるんですね(いや俺も知らんけど)。

友だちの作り方という,あたかも必要な手順や効率的に友だちをつくる方法を体系化しているマニュアルのようなものがあるかのように思っているようですが,そんなんないよ。

ないない。

なので具体的にどうすればいいかを考えるよりは,まずは現状をしっかり振り返ってもらったほうがいいのかなと思っています。

効率的と言う言葉,最近は本当にちまたに跋扈していて,とりわけ若い世代には情報過多ネイティブが持つ能力の一つとして,効率的に情報を処理するチカラが自然に身についていたりします。
学問には効率性はそもそもないと思う反面,大学に入るまでは一直線に「高効率」で無駄をそぎ落としつつ学習してきた彼らですから,寄り道しながら学んでいけば良いんだよなんて一昔前のスタイルはあわないのですね。
誰がこんなふうにしたんだろうかと思わなくはないのですが,それが時代の流れならば受け入れるほうが賢い選択でしょうか。

たとえば
「友だち」が居ると,あなたの今はどう変わると思う?
「友だち」ができたらどうしたい?なにがしたい?どんなこと話したい?
「友だち」ってどんなひとのこと?
あなたにとって「友だち」ってなにかな?

「友だち」が居なくって困っているというのなら,友だちが居た方がいいと思っているということでしょうか。
どうして急に友だちを作りたいと思ったんでしょうか。

そこにまつわるエピソードを振り返ってみて,本当にいま友だちを求めているのなら,なにかを変える必要があるかもしれませんね。

ちなみに僕は似たような質問として,

ATフィールドの外し方を問われたこともあります。

いやATフィールドは,ひとはみんな身につけているものだし,自分と他人の境界をつくるために必要なものだから外さない方がいいのでは…と思いつつ,しばらくお話をしました。

さて,これらの問題は,対人関係の学びをこれまでどうしてきたのか?に繋がります。ひとによっては,中高の青年期(前中期)をひとと関わらずに,あるいは同世代の人とは関わらずに過ごし,本来学ぶべきことを学んでいないこともありますから,これは個人差は大きいものです。

そういうのは学校でなんとなく学んでくるものと言ってしまうのは簡単過ぎかもしれません。
生き方は千差万別。歩いてきた道も色とりどり。

それまでに学べずとも,これから学べば大丈夫ですからね。

アドラーは交友のタスクを人生のタスクの2番目にあげています。友人関係は仕事の関係よりも一段高いレベル,近しい存在との関係性であるがゆえに,少し難易度の高い関係性だと考えているのですね。

それは一重に「信頼関係」を結ぶことの難しさを物語っているのではと僕は思っています。

信頼関係というのは,相互に,しかし一方的に信頼し合う関係です。一方的に信頼するというのは,相手からの信頼を期待しない,ただ無条件に相手を信頼することです。

そしてそのためには「勇気」が必要です。
勇気をもって相手を信頼する。相手が自分を信頼してくれるかどうかと関係なく,ただひたすらに信頼すること。この信頼にチャレンジしていく勇気を持つことができれば「友だち」は自ずと側に居てくれるでしょう。

友人関係に向き合うタイミングはきっといつか来ます。
もしも友だちが欲しいなと思ったら,そのときはしっかりと自分と向き合ってみてください。

以下蛇足。

余談ですが,友だちっていなきゃいけないかというと,たぶんそうでもないのでしょうけれど,こういった極端な話に論理的な結論を求めようとしなくても良いと思っています。

「いなくちゃいけないのか?」という問い自体がそもそも友だちがいないことを責められていると感じていて,そのような考え方に対して否定的なので(つまり自分の防衛反応的なものです),その問いの持つ意義は「友だち」という存在の是非というよりも,現状の自分に友だちがいないと自分は思っていて,それを否定したくない気持ちがあるのだと思います。

一般に友だちがいることで得るものは当然にあるでしょうし,一方で友だちがいないことをストレスに感じるほどに固執する必要はなく,だから友だちは居なくちゃいけないのか?という問いには「そんなことはないと思う」と答えつつも,人間関係のひとつとして気が付けばそこにあるということが自然なのではないでしょうか。

学校のクラスは,比較的近くに住んでいる同じ年に生まれたひとが集まっているだけの集団ですから,そもそも友だちができやすい環境にあるわけではなく,その中に「気が合う友だち」に出会わないことはこれまた当たり前にあると思います。興味の対象が同じだったり,考え方が似ていたりしていた方がきっと友だちになりやすいだろうと思うので,たまたま集まったひとのなかにそういうひとがいなかったとしてもそれほど不思議ではないですし,その中で無理矢理に自分の考えや興味を変えてまで気を合わせなくてもいいかなとも思います。

そんなに時間を待たずに,ひとは自分の居場所を広げていくことができるので,近い将来に趣味とか,好きなものが集まるところへ場所を移していけば「友だち」になりやすい集団に出会うことができるはずです。

そして,今は友だちがいない自分もOKだとしても,たとえば友だちに出会いやすい環境で,「友だちになれるかもしれない気持ち」に出会えたとしたら,そのときは「友だち」自体を否定することも,友だちがいなかった自分を否定することも,あるいは「友だちつくってもいいかな」なんて感じてしまった自分を否定することも,まったく必要はないのではないでしょうか。

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